誰?

このあいだ、バイト先の中国人君がバイトをやめるとかやめないとか言ってた。
それを聞いて私は
「中国人君がバイトやめたら寂しくなるね」と言ったら彼が
「誰が(寂しくなるの)?」と返してきた。
とっさに「え、私が」と言ったけど、そのときは内心「なんでそんなこと聞くんだ?」と思った。
中国人君は「ああ」って納得してるんだかどうなんだかよくわからない反応をしてたけど。


でもやっぱり分かりづらかったのかなあ。
日本語って「誰が」「誰は」が同じ文章の中でもコロコロ変わるし。
さっきのも、もしかしたら中国人君は「バイトをやめてしまう自分が寂しい」と、自分の気持ちを私が考えて代弁したって捉えたのかもしれないし。
あれかな、私が「寂しくなる」じゃなくて「寂しくなるなぁ」と独り言っぽく言えば中国人君もわかってくれたのかな。


で、もうちょっと考えてみた。
もし私がバイトをやめることになって、誰かが「寂しくなるね」って言ってくれたら
私は「ありがとう」とか「そうかな」ってちょっと照れ気味に返すだろうな、と。
以前、私は自動車学校の送迎の運転手さん(推定70歳)が「俺、もうすぐこの仕事やめるんだ」って言ったときに今回と同じく「えー、おじさんがやめたら寂しくなるじゃないですかー」と言ったら
おじさんは「なんだよ、嬉しいこといってくれるじゃねえか」とやっぱり照れたように笑ってた、なんてことも思い出した。
深い意味はなくても、「寂しくなるね」って言われることは嬉しいことなんだよなあ。


でも中国人君にはそんな感覚がなかったのかも。
森田良行の日本人の発想、日本語の表現―「私」の立場がことばを決める (中公新書)って本にこんなことが載ってた。
入院している仕事の同僚のお見舞いにいったとき、
日本人なら
「やあ、思ったより元気そうじゃないか」
「君が休んでいると仕事がとどこおって皆困ってるんだよ」
「早くよくなってね」
とこんな感じでなぐさめるけど、
中国人は
「やあ、顔色がよくないね」
「会社のことなら私たちでちゃんとやっているよ」
「安心してゆっくり休んで」
と言う、らしい。
○日本人は己と関連付けて自らの身にふりかかった問題として考える
○中国人は相手の状況をドライに受け止め、自己と結び付けることなく客観的にみている
この違いを表していることの例として挙げられてた、はず。(引用しているくせにうろ覚え)


この「寂しくなるね」も「自らの身にふりかかった問題」として捉えてこそのセリフと考えれば、
中国人君が理解しづらかったのもわかる気がした。
あ、付け加えておくと、中国人君はほんとに日本語ペラペラで、敬語とくだけた言葉もちゃんと使い分けられてて、
彼の日本語を聞いてるとはっとさせられることも多いんですよ。
ただやっぱりこれはわかりづらかったのかな、と。


話がつながってるかどうか疑問だけど
いろいろ気付かされたやりとりでした。まる。